過日、とあるメディアの取材を受けました。
事務所に編集、ライターさん、カメラマンさんの3人で来ていただいて、気がついたら4時間近く話していた。
「そんなにしゃべって疲れませんか?」と言われて、たしかに...と思う。
(長くなってしまって失礼しました)
とくにライターさんには、たくさんの言葉を真摯に聞いていただいて、すごく丁寧に取材をしていただきました。最後もいくつか質問をされたけど、その場ではうまく答えられなかったことがあり、整理するために、ブログに書いてみます。
混沌や猥雑さは、人生そのもの
「あつしさんの写真は、祭りのあとみたいに、ときどき寂しさを感じる気がするんです」
じつは、撮っている本人の僕としてはあまり自覚しているわけではなかったりして、写真の中のスナップ性はすごく意識しているけど、感傷的な要素だとか、こう見てほしいという計算をできるだけ排したいという気持ちがある。
感傷的なもの=アート性だったりするんだけど、そういった作為的な感情や主観を排して、人の心に近づく写真を撮れるかどうか。
内面的な写真って、他の人の作品として鑑賞する分にはいいけど、自分でファインダーをのぞいていざ撮ろうとすると、どうもウェットに感じてしまって、僕が撮らなくてもいいかなと思うし。
ただ、ライターさんの感じてくれたこと、ご指摘はきっと正しいんですよね。
人は、混沌としたものや猥雑なものの中に、美しさを見たり、
そしてまた、
楽しいものの中に、ふとした切なさを感じる。
こういうことってきっと、たぶん人生そのものなんです。
「毎日が文化祭」を目指して
僕は写真を撮りながら、ずっと「お祭り」の中にいたいなって気持ちがある。
みんな毎日、楽しいことがあって、ずっと楽しさが続けばいいなって思うけど、それって人生の不可能性というか、ある意味、絶対に無理なわけです。
だけど、その壁を超えていこうという、意志の力というか、そういったものが写真に写ったらいいなというのがあって。
僕の写真を見てくれた人が、元気になってほしいなという気持ちが、伝わるんじゃないかと。
なぜかというと、そこに写っているのは人々の息づかいであり、だからこそ写真を見てくれた人自身の人生と重なり、オーバーラップするんだと思います。
そういったところが、写真の面白さのひとつでもあるんですよね。きっと。